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若山 牧水(歌人) 明治18年(1885年)、宮崎県東臼杵郡東郷町坪谷で生まれた牧水は早稲田大学英文科を卒業後、 歌人の道を歩みました。
大正9年(1920年)に家族と共に沼津に転居し、その後も全国様々な箇所を旅する事を続け各地に多くの歌を残していきましたが、昭和3年(1928年)9月に44歳という若さでその生涯を終えられました。
ひそまりて ひさしく見れば とおやまの ひなたの冬木 かぜさわぐらし わが泊まり 三日四日 つづき居つ きたるこの部屋に見る 冬草の山
ひとみには 露をたたへつ 笑む時の 丹の頬のいろは 桃のはなにて 花のころに 来馴れてよしと 思えじ 土肥に来て見つ その梅のみを


島木 赤彦(歌人)


明治9年(1876年)に長野県諏訪郡上諏訪町に生まれた彼は、本名を「久保田俊彦」と言い、大正後期に「アララギ派」の巨匠と全国から仰がれた歌人でもあります。

そんな彼が土肥に来遊したのは大正14年1月末から2月にかけてで、その時の体験をまとめた「土肥温泉」連作は、没後の歌集「柿陰集」に納められています。
土肥の海 漕ぎ入れてみれば白雲を 天にかけたり 不二の高嶺に


大場美夜子(作家)

俳人で「ホトトギス」の重鎮である。
富安風生の門下で俳誌「雪解川」の主催者でもある。

昭和36年の春、土肥を旅して詠んだ歌「なめらかな 海に裳(すそ)を引く 春の富士」の句碑が今も松原公園に設置されている。
なめらかな 海に裳を引く 春の富士


竜胆寺 雄(作家)

明治34年(1901年)に千葉県印旛郡佐倉町(現在の佐倉市)で三男として生まれた竜胆寺雄は、本名を「橋詰雄」と言います。
昭和3年、雑誌の懸賞小説に「放浪時代」が当選したのを機に作家としてデビューした彼は、翌年の昭和4年に新聞連載を始め、文壇の寵児となりました。
その後昭和6年に「魔子」を、昭和9年に「M・子への遺書」を刊行後、文壇から離れ昭和10年に神奈川県に転居し、温室を建ててシャボテン栽培に没頭するようになり、その後サボテン栽培の普及に多くの著書で貢献したそうです。

平成4年(1992年)に91歳でその生涯を閉じられました。
むかし 井の水澄めよとて黄金を沈めぬ 土肥の湯は金の鉱脈に滲みて湧く湯 玻璃のごとく 澄めり


作家・花登筐(はなとこばこ)

昭和3年3月に滋賀県で生まれた花登筐は、同志社大学卒業後、商社マンを経た後、しばらくしてからテレビの脚本家や劇作家、
作家として活動を始めました。
主に関西を舞台にした商人の生きざまを描くのを得意とし、土肥も舞台になった「細腕繁盛記」は彼の代表作として多くの人に知られています。
他にも「どてらい男」「あかんたれ」「ぼてじゃこ物語」「船場」「土性っ骨」など30年間に執筆した脚本は約6000本にも及ぶ程でした。

昭和58年、病に倒れて56歳という若さで他界されました。
土肥は湯と金の町 湯の中で砂金がきらきらと眩いばかりの光粒を見せる。 銭の花が白く清らかさを持つならばこの花は黄金の花粉であろう。


井沢 満(作家)

1945年8月にソウルの特別市で生まれた井沢満氏は早稲田大学文学部仏文科を中退後に、NHKのラジオドラマのシナリオコンクールに入選したのを機に脚本家の道へと進みました。
当初はラジオを中心に脚本を書いていましたが、後にあるきっかけでTVドラマの脚本を書きそれが認められて舞台をTVドラマの脚本家として活躍するようになりました。
土肥を舞台にした「青春家族」や「同窓会」はいずれも話題作となり高視聴率を記録しただけでなく、土肥の知名度を上げた貢献者として花登筐氏に次ぐ名誉町民第二号となりました。
現在ではテレビだけでなく映画や舞台のシナリオ家として、また小説や雑誌への執筆活動、作詞、ファッションショーの構成台本など幅広い分野で才能を発揮されております。
私は土肥に二つの作品を贈った。 一つは青春家族であり、もう一つは同窓会である。 この土地は青春がにあうところである。



笹倉明(作家)

昭和23年(1948年)兵庫県で生まれた笹倉明氏は、早稲田大学文学部文芸科を卒業後、作家としてデビューしました。
昭和56年(1989年)に「海を越えた者たち」ですばる文学賞佳作を受賞、同年「遠い国からの殺人者」で直木賞を受賞、昭和63年(1996年)に「漂流裁判」でサントリーミステリー大賞を受賞する等、話題作を次々に提供しています。
土肥では静岡新聞に連載された「ひとびとの岬」で土肥を紹介したのをきっかけに、土肥で行われた日記文学大賞「愛アリー大賞」の審査委員長を務め、また土肥の新観光名所「旅人岬」の名付け親になる等、土肥の功労者とも云える存在です。
赤みと大きさを増して 輪郭をくっきりさせた夕陽が 長い朱の帯をのばす。


本因坊秀和顕彰碑

文政三年(1820年)、伊豆市小下田(当時の君沢郡小下田村)に生まれた秀和は幼名を「土屋俊平」といい、俊平が九歳の時、沼津に住む十二歳の少年と囲碁で対戦した事がきっかけで本因坊の門下生になりました。
十二歳で初段、十三歳で名を「秀和」と改め、二十歳になった天保十一年(1840年)、本因坊の跡目となった秀和は七段に進み、本因坊一門随一の実力者に成長しました。

安政六年(1859年)に秀和はついに名人碁所の願いを出しました(この時秀和四十歳)が、宿敵・井上一門の反発や、幕末動乱等で結局、秀和はついに名人になることなく、明治六年(1873年)、五十四歳で失意のうちにその生涯を終わりました。
郷土の天才棋士、第十四世本因坊秀和は、幼少の頃より囲碁に秀で九歳で第十二世本因坊丈和に見込まれ門人になった。 二十歳で七段に進み本因坊一門の最高実力者になった。 碑は幻庵を破った時の一手の棋譜が再現されている。







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